Story

フォルテピアノへの道3
ウィーン式のピアノとは

モーツァルト家

ワルターのピアノのレプリカ

さてジルバーマンの登場そしてピアノ作りの発展で一気にピアノのクラフトマンシップはヨーロッパ内で熱を帯びる。その熱は大都市ロンドン、パリ、もしくは南ドイツやウィーンという大きく分けて二つの流派に分かれていった。【イギリス式】と【ウィーン式】のピアノがあったということになる。楽器の構造も当然その土地、そこに住む人間の好みが反映さるわけなので、ピアノ一台一台が歴史の証人となった。
姉アリア・アンナと連弾するモーツァルト
1778年かのモーツァルトはお母さんとパリにいたのだがそこで見たのはグリム伯爵の家にあるポールマン製作【イギリス式】のスクエアピアノ。1782年から20年の間にロンドンの名工ブロードウッド(John Broadwood 1732-1812) が作ったスクエアが7000台だというから【イギリス式】のピアノはヨーロッパ全土に広まっていったし、実際22歳のモーツァルトも【イギリス式】にピアノに触れていたことに歴史のロマンを感じる。

ではモーツァルトの普段使いのピアノとは一体何だったのだろう⁉️

1777年にはアウグスブルクで名工シュタイン(Johann Andreas Stein 1728-1792)と出会い、楽器の性能についてお父さんへ手紙を認めている。音がよく消えること、(弾いたあと音が残らないという意味)と打弦の確実性(装飾音のクリアネス等)について褒めていたようだ。

実際にモーツァルトがピアノを自分で持てるようになったのはもっと後、1785年(モーツァルト29歳)の父との書簡では演奏会の時に自分のピアノ運んでいた様子が記述されている。そのピアノがおそらく【ワルター】だと言い伝えられている。

2000年の夏(前述)私が初めてベルギーへ行ってバルト先生と先生の先生であっマルコム先生(Malcolm Bilson)のマスタークラスに参加した時、まずはこれをマスターしないとねと言わんばかりの存在感を放っていたのもこの【ワルター】だ。

ワルター(Gabriel Anton Walter 1752-1826)はウィーンで最初にピアノを製作した人物であり、なんと言ってもモーツァルトが一台所有していたことで知られるようになった。

下のファからファまでのオクターブが5回、つまり五オクターブの楽器は華奢な木の足で支えられているが、その鍵盤を触るとなんとも軽く、薄い革で包まれているハンマーが指先を通じて肌で感じられるほどだ。

この楽器のペダルもまた外側からは見えない。Knee pedalという膝で突き上げるペダル「ダンパー」と「モデレーター」がその鍵盤の下に見えないように設置されている。【モデレーター】は布がハンマーと弦の間に挿入されることで音色が一気にこの世の世界から離れるような幽玄の世界へと私たちは誘われる。

その【ワルター】はフォルテピアノ業界ではまず最初に取り組む楽器として、ヨーロッパの音楽学校に置かれていることが多いし、またそれらの歴史的楽器はたくさん現存していないので、ヨーロッパの現代の名工たちがその素晴らしいモデルを模倣して(「レプリカ」と呼ぶ)現代にその音色を蘇らせようとする動きは、「古楽復興」「ピリオド楽器」「歴史的実践」などという言葉に象徴される。

その楽器に、20歳の私は出会い
度肝を抜かれたのだった。

【ワルター】で初めて聞いたハイドン
マスタークラスは古城で行われたし、ヨーロッパのコンサートは夜もだいぶ更けて行われる。その暗闇に静かに、そしてふわっと浮かび上がるハイドンの世界。古典派の中では珍しい「変ニ長調」という調性が「モデレーター」と相まってこんなにも幻想的で甘い調べになるとは‼️

私のオランダ留学は、あの夜、決まったのだった。